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中高生の皆さんへ |
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私と演劇
——— 「他者」と出会うこと
自分はなぜ演劇をやっているのかと考えることがあります。
始めたきっかけではなく、続けている理由です。(始めるのは偶然でも、続けているのにはその人なりの必然性があると思うからです。)
そしてその答は、僕の場合、ふたつ導かれます。ひとつは、自分を変えたいから。もうひとつは、自分を知りたいから。
こう書いてみると、なんだか矛盾しているように見えますね。
すこし詳しく追ってみましょう。
僕は、いまの自分というものに満足できません。いまもそうですし、これまでもずっとそうでした。
これは自己嫌悪とか、自己否定というものとは違います。ある意味では、自分の存在を肯定しているからこそ、「もっとましになりたい」という気持ちも強くなるのです。
「存在を肯定している」というのはどういうことかというと、「自分」というものはそのほとんどが僕がつくったものではなく、ひとことで言えば「自然」が作ったものであって、その奇跡を「すごい!すばらしい!」と感じるということです。言葉を換えれば、自分という生命体は、宇宙から、存在を許されている、という感覚です。自分がこの世界に存在していること自体がひとつの「祝福」である、という感覚。
でもこのすばらしさは、地球に生命体が生まれてからの45億年によってもたらされたものであって、自分の力で獲得したものではありません。そして、「自分の力で獲得したもの」は、それと比べて、あまりにも不完全です。いや、宇宙のしわざと自分の力とでは比べようもないわけですが、ともあれ、この自分の力でやれるはずの部分については、もう少し何とかならないものか、と思ってしまうのです。「けっこう良くやってるじゃないか、僕って」なんて、とうてい思えません。
そしていまの自分にいつも満足できないから、無理矢理にでも自分を変えたいと思います。そのためには、なにか、自分以外のものと、出会う必要があります。自分以外のもの=他者ときちんと向かい合うことで、自分は変わらざるをえなくなる、というわけです。
「他者」は人間とは限りませんが、もしその「他者」が人間であったら、その人と自分が真剣に向き合った時、自分だけが変わるということは起こり得ません。必ず、お互いが、変わるものです。そして、こういう事を求めて世界のいろいろなところで芝居をしてきて、つくづくわかったことは、ほとんどの人は自分が変わることを恐れている、ということだったのです。‥‥それは、実は僕自身も含めて。
自分に満足しているひとはまれでしょう。いまの自分とは違う自分になりたいと、多くの人が思っていることでしょう。そしてそういう体験をひそかに期待して、劇場にも、海外旅行にも、足を運ぶのでしょう。ところが、そうした旅(劇場に行くことも、芝居をすることもその意味で旅なのですが)に出ても、ひとは、たいていの場合、自分を巧妙に守ってしまうのです。ほんとうは、自分の知らないこと・これまでの自分では対処しきれない事態、に出会っているのに、従来の枠組みのなかで処理して済まそうとします。‥‥いや、こうした「悪知恵」を身につけていないうち、すなわち青春期は違います、青春期の旅はほんとうの旅です。恋愛も、芸術体験も、そのひとをどんどん変えてゆきます。きっと青春というのは、神様が人間に「自分を変える勇気」を与えた特殊な一時期のことなのです。でも、誰においてもこの一時期は過ぎ去り、誰もが青春を懐かしみます。そしてそのときには、自分を変えないで済む知恵を、つまりは自分を危険にさらさないで済む、自分を動揺させないで済むための知恵を、身につけているのです。
こうして、自分を変えることの困難を知れば知るほど、いっそう、そういう奇跡的出会いを求める気持ちは強くなりました。そして確かにこれまでに何度か、ほんとうに自分のものの考え方を根底から揺さぶられるような、言い換えれば自分という存在そのものの祝福をはっきり感じるような、そういう「旅」を味わいました。
いま、自分を変えるには、他者と出会う必要がある、と書きました。そして、実は「他者」と出会うことを僕自身がとても恐れていて、そして相手もそれを恐れていて、だからそういう出会いはなかなか起こらないとも書きました。
ここで言う「他者」とは、つまり、自分にとって違和感のあるもの、という意味です。ひとは、楽に生きていけるようにするために、生きること自体で消費するエネルギーを少なく済ませるために、日々の生活でなるべく「違和感」を感じないようにと自分を訓練してゆきます。それが上記の「悪知恵」です。またいまや、たいていのひとが、「こわい」とか「アブナイ」とか「キモい」とか「引く」とか「暑苦しい」とかいう言葉を使って、自分に違和感のあるものを徹底して排除しようとします。つまり、自分自身にバリアを張りめぐらせて外界とじかに触れないようにする一方、外界のほうも、なるべくクリーンに、つまり今の自分の感覚だけで対処できるように、掃除しておく。結局、誰もが「閉じている」現代社会が、こうしてできあがっています。
でも、改めて考えてみると、こうして塀をめぐらせて守っている「自分」というものを、僕らは、どの程度知っているでしょうか?
むしろ僕はときどきふとしたひょうしに、「自分」が、なにかとんでもない生物、見たことのない奇妙なバケモノ、であるように感じることがあります。誰でもそうではないでしょうか?
自分というのは、なんだか、いつまでたっても、よくわからないものではないでしょうか?
ということは、実のところ、「自分」こそはいちばん身近な他者、つまりは違和感の固まり、だとは言えないでしょうか?
そして僕は、自分の中の衝動を観察するとき、「他者と出会いたい」という欲望が「自分とは何かを知りたい」という欲望と重なっていることに気づくのです。いちばん違和感のある存在、いちばんの他者とは、自分のことではないかと。
はてな、と思われる方もいるでしょう。自分を変えるために他者と出会う。その他者とは、最終的には自分のことである。とすると、「自分」と出会った「自分」はどうなるのか?
当然、変わってしまうのではないか?
そのとおりだと思います。自分を知ろうとして自分に深入りすればするほど、その自分は変わってゆく。つまりは、自分というものは、一生、つかめないということになります。
これを僕は空しいとは思いません。むしろこの謙虚さに、到達したいと願っています。自分は、無い。把握すれば把握するほど、つかめなくなる。人間というのは、こういう、根本的にパラドクスをかかえた存在なのだろうと、いまは思っています。
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