「劇場文化」掲載エッセイ

寺山修司と「毛皮のマリー」
北川登園

1974年の夏、私はほとんど演劇の知識がないまま無謀にもニューヨークへ出かけた。その年、ある新聞社の演劇担当記者になったばかりで、今はない東京キッドブラザースのニューヨーク公演を観るためだった。作・演出は東由多加で、劇団の主宰者でもあった。彼らはその4年前にも渡米し、ミュージカル「黄金バット」を上演した。この時、ニューヨーク・タイムズ紙は「すばらしいオリジナル・ミュージカル」と絶賛した。翌年は「八犬伝」、翌々年は「西遊記」を持って欧米を巡り大成功を収めた。

そして、74年は新作ロック・ミュージカル「ザ・シティ」公演である。埋立地を遊び場にしていた少年たちが、団地の出現で遊び場から追放される。少年たちはトマト・ゲームで、自分たちを閉めだしたガードマンに抵抗する。オートバイに乗って疾走し、団地の壁の寸前で飛び降りるゲームである。一人の少年がゲームに失敗して死ぬ。ジェームス・ディーン主演の映画「理由なき反抗」を重ね合わせ、少年の日の訳も分からぬ苛立ちを甘酸っぱく思い出させはするが、ただそれだけの作品だった。

東京公演を観た時、新米の演劇担当記者とはいえ、劇団には気の毒だが、過去の栄光に泥を塗るのではないかと危惧した。実はニューヨーク公演に出かける前、東と成功するか失敗するか大議論したのだが、不幸にも私の失敗の予想が的中してしまった。

彼らの公演した劇場は、オフ・オフ・ブロードウェイのカフェ・ラ・ママといい、日本にもなじみの深い黒人女性、エレン・スチュアート女史が経営している。世界の演劇人に門戸を開き、有名なところではピーター・ブルック、タデウシュ・カントールらもこの劇場で公演している。日本の演劇人もかなり世話になっている劇場だ。

この劇場のロビーで意外なポスターを発見した。発見したなどと大げさにすぎるが、鉄棒に羽のように取り付けられていた何枚ものポスターをぐるぐる回していて、寺山修司作・演出の「毛皮のマリー」に目が止まったのである。その頃の私は、寺山が70年にアメリカの俳優を使って、「毛皮のマリー」を演出したことなど全く知らなかった。無知以外の何物でもないが、無知はそればかりではなかった。

東由多加が寺山修司主宰の演劇実験室・天井桟敷の創立メンバーで、しかも67年に今や伝説の映画館アートシアター新宿文化で「毛皮のマリー」が初演された際には、演出を担当するはずだった。「はず」と書いたのは、彼が〝敵前逃亡〟したので、仕方なく寺山修司が演出したからである。最初に紹介した東のミュージカル志向を見れば、彼の〝逃亡〟は当然の帰結だったろう。

「もし」という仮定が許されるならば、東由多加が早稲田の学生時代、寺山修司の処女作「血は立ったまま眠っている」を演出しなかったならば、寺山の歌の別れはなかったかもしれない。まして、命を賭してまで演劇にのめりこんでいくことはなかったろう。最低でも演出家・寺山修司は存在しなかったかもしれない。つまり、東は万華鏡のような存在の寺山に対し、「演劇人」というさらなる肩書きを加える役目を負わされていたのではなかろうか。

「寺山修司の戯曲1」(思潮社刊)の作品ノートには、「演出・美術・照明・音楽 寺山修司」と記されているが、美術も横尾忠則の担当だった。笑い話のような話が残っているが、横尾の美術は大きすぎて映画館に入らなかったという。それで、二つに切って搬入しようということになり、横尾が怒り出して美術も寺山の担当となったという。急なことなので、舞台美術は毛皮のマリー役の丸山明宏(現・美輪明宏)の私物を利用したという。嘘のような本当の話である。

この駄文に目を通されている方は、書き出しの東由多加のアメリカ公演など関係ないと思われることだろうと察してはいる。しかし、先にも書いているように東の寺山を演劇の世界に誘い込んだ功績の大きさと、「毛皮のマリー」にまつわる不思議な因縁を感じて紙幅を大きく割かせてもらった。

余談から始めたのだから、さらに余談を続けると、天井桟敷の後期の傑作「奴婢訓」のアメリカ公演の最後は、エレン・スチュアートに「アメリカで公演する時には私のところで」と言われていた通り、カフェ・ラ・ママに隣接する新しい劇場ラ・ママE・T・Cを選んだ。80年5月にサウスカロライナ州チャールストンで開かれた「スポレート・フェスティバルU・S・A」に招かれ、その帰途の公演だった。

その頃、寺山修司は既に肝硬変に蝕まれていたが、ニューヨークで合流した時の彼は意外に元気そうだった。先にピーター・ブルックの一行が公演して行った舞台に少し手を加えただけの美術を楽しむ余裕すら見せた。ニューヨーク・ポスト紙などは「過去一年間で観た最高の作品」とまで書き立てた。「ピーター・ブルックにだけは負けたくないと思ってね。今は目いっぱい戦ったボクサーの心境だよ」と、寺山は公演の評価の高さに満足そうだった。

寺山修司の亡くなった1983年5月3日をもって、事実上解散を余儀なくされた演劇実験室・天井桟敷は、1967年4月、見世物の復権を唱え「青森県のせむし男」で旗揚げした。この年、「大山デブコの犯罪」「毛皮のマリー」と立て続けに上演し、スキャンダラスな話題を提供した。

旗揚げに当たって天井桟敷は、「奇優怪優侏儒巨人美少女等」を募集した。新劇が体制ならば、もうこれだけで反体制、つまり既成の演劇には目もくれず、かつて見世物小屋に息づいていた怖いもの見たさの祝祭性に目をつけたのである。女装劇「毛皮のマリー」は、夜十時からの公演に観客が入りきらず、深夜に二回も公演して述べ五千人の観客を動員したという。

寺山修司は既存の作品から想を得て、あるいは引用して本来の作品以上に寺山修司の作品にする天才だったが、「毛皮のマリー」にも原作と思しき作品がある。童話の「白雪姫」はもちろんのこと、アメリカの劇作家アーサー・L・コピットの「ああ父さん、かわいそうな父さん、母さんがあんたを洋服だんすの中にぶら下げてるのだものね ぼくはほんとに悲しいよ」(国書刊行会刊)である。

一人息子を部屋に閉じ込めて教育する母親、その母親は亡き夫のトラウマを秘めている。息子はそんな母親の元を離れられず、部屋に訪ねて来た少女に恋心を抱いて、外界に憧れても逃れることは出来ない。「毛皮のマリー」の男娼のマリーと欣也との関係が、まさしく「ああ父さん…」を踏襲している。確かに引用はしているが、寺山修司は不条理劇をメタシアターに仕立てている。

欣也の母親である毛皮のマリーは、実の母親ではなく男娼である。男娼が母親という遊びは、女が疑似の母親といよりもより演劇的である。そして、その当時名を馳せたゲイバーのママさんたちを踊らせることによって、寺山修司は「万てのにんげんは俳優である」という論拠を確立する。

このオカマの踊りのアイデアについて寺山は、入江美樹からサンフランシスコで週一回仮面を付けた素人の女たち(主婦や女教師)がストリップを踊る、という話から発想を得たと書いている。美輪明宏はいまだに毛皮のマリー役に固執し、欣也は若松武でなければならない、と決めつけている。初演の欣也は萩原朔美だったのだが…。

母と息子の愛憎は、「毛皮のマリー」に限らず、寺山のあらゆる作品の原点となっているが、この戯曲ほど数多く上演される寺山作品はほかにないと思う。今回は母親が男娼という虚構から人形という虚構の存在になるが、どのような魂が吹き込まれるのだろうか。

北川登園 演劇評論家。日本大学芸術学部非常勤講師。著書に『職業、寺山修司。』(STUDIO CELLO、2007年/春日出版で文庫化『寺山修司入門』2009年)、『トットちゃんの万華鏡—評伝黒柳徹子』(白水社、2005年)等多数。